ツクヨミ~ヤマトタケル

日本の古代史を知るにつけ
ついにホツマツタヱは無視できないと悟り、購入したのは数年前。

三段組でホツマツタヱの同じ個所に
古事記と日本書紀が併記してあって調べものには重宝します。
編纂大変だったろうなあ。。

 
わたしは特にホツマツタヱの中のヤマトタケル
(ホツマツタヱではヤマトタケと記載)の項の、
その膨大な記述量が気になったのですが、
そのなかでヤマトタケは、
自分はスサノオの分け御魂であると自覚があったようです。
古事記など読んでもそれを匂わすような
ヤマトタケルの人物描写が成されているように私には感じられます。
(古事記は結構事実を捻じ曲げて、というのでしょうか
どの時代もかなり意図的にわかりにくく描かれています。)

『うつわ 迷宮 兎 湧水』

今日の写真の二つの絵皿
『うつわ 迷宮 兎 湧水』と
『うつわ 迷宮 兎 渦玉 ひとしずく』の白兎たち、
10月1日まで点滴堂さんの企画展『兎迷宮・月読』に出展させていただいているのですが、
これらはヤマトタケルのエネルギー
(スサノオ~オオクニヌシ~ヤマトタケルの流れのエネルギー・・
オオクニヌシも兎にご縁ありますね。因幡の白兎。)
を感じながら作っていました。
 
海の神スサノオの分け御魂。
なぜか私もご縁あってヤマトタケルがお祭りされている場所を
はからずもあちこち訪れてみると、
湧水や滝、川の在る場所(とくに湧き水)に
ヤマトタケルのお社が多いと言うことがわかり、
水のエレメントからのキーワードは、竜、龍宮(后の弟橘姫)。
それと同時に
その場所には不動明王(火のエレメント)が同時に祭られていることも多くて、
そうなって来ると
*ヤマトタケル・風/何度もおぼえがきしていますが、
諏訪のつながりで視ると風の神様タケミナカタ~イエスの流れにヤマトタケルは在ります)、
*不動明王・火、
*弟橘姫・水、
同時にこの三つのエネルギーがセットで成されることがあるのでしょうか、と。
三つ集まることで動き出すひとつの理、システムです。
 

『うつわ 迷宮 兎 渦玉 ひとしずく』

 
ホツマツタヱでの三貴神は、
アマテラス(アマテル)
ツクヨミ
スサノオ
の三柱となっているようで、
ツクヨミはスサノオの叔父だとされています。
(三貴神に関して私はスサノオではなく
別の一柱の存在を感じるのですが、その話はまたの機会に)
 
興味深いなあと思うのは、
アマテラスを祭る大和朝廷側のヤマトタケの魂の転生を辿ると
ツクヨミ、つまり太陽ではなく月の側に辿り着くと言うこと。
ヤマトタケは景行天皇の子では無いんじゃないかな、とも個人的には感じています。
(ヤマトタケルは役職名ですが、
ヤマトタケはその役職についた個人と仮定して書いています。)
 
ポッドキャスト『航海の護符』でもお話しさせていただきましたが、
私が陶芸を通してなんとなく太陽のことをしていると思っていたら、
だんだん作るものが明らかになって行くにつれて
それは月だった、ということに気づいて、
何とも言えない心持ちになったのですが、
そんなところから、
アマテラスという衣装の中身は実はツクヨミだった、
ということを感知した実体験があります。
 
アマテラスそのものには、
スサノオやツクヨミのような、
エネルギーの活動を感じないのです。
誤解を恐れずに言ってしまえば
アマテラスは不在とでもいうのでしょうか。
 
で、
このシステムはどうなっているのかというと
アマテラスは実質ツクヨミが動かしていた、という、
宇宙の情報を読まれているかたに今年の六月にお会いして、
そうおっしゃっていたこと、なんだか納得しております。
詳細は省きますが、
自分が感知していたことは
やはりそうだったのだとの答え合わせがありました。
 
そして私もはっきりと
いまは月のことをしているのだという自覚のもと、
土を用いて顕れるもののお手伝いをしているわけで、
ツクヨミのエネルギーが来ますのもわかります。
(結局、内外共に闇のことをクリアしなければ本物の光は生まれてこない。
いつも光は闇からうまれてくるのだから。)
 
現状でアマテラスが女神で
ツクヨミが男神(平田篤胤系の古神道では
ツクヨミとスサノオは同一神ともいわれています)というのは、
それなりに事情があることで、
やがて鏡に映されたものが反転する時がやって来ます。
(面白いことに私の故郷のスペインでは、
太陽は男性、月は女性、なのですよね。
因んで書いてしまうと
日本海側のとある神社に訪れたときは
太陽は男神(ヒ・日、火)、
月は女神(ミ・水)と成るように配置されていて、
やはりこれが本来のもとの姿のようにわたしは感じます。
 
ただし、
パラレルのどの地点で視ているかによって
男神、女神の視え方も変わってくること、
陰陽は固定されたものではなく相対的なものであること、
合わせてここに明記しておきます。)
 
 
来年はこれまでと全く異なるエネルギーが来ると感知していますが、
それは鏡写しの反転のエネルギーなのかもしれません。
  
詳しく書くことできず
分かりにくいお伝えとなりましたが
雰囲気でつかみとって頂けたらと、
あえて世の現状と繋がり深いこととも思い、
今日のおぼえがき
させていただきました。
 

 
新作さまざま出展させていただいております。
 
◆点滴堂企画展
『兎迷宮・月読』
9月20日(水)~10月1日(日)
12:30-20:00 月・火曜定休
会場 東京都武蔵野市中町 1-10-3 2F
TEL 090-6796-5281
http://tentekido.info

◆点滴堂さんHPより◆
三鷹駅 北口 歩いて5分、
「点滴堂」はギャラリースペースのあるブックカフェ。
ちいさな店内にぎっしり詰まった書棚の古本はすべて販売してます。
作品の展示を楽しみつつ。
お気に入りの1冊を選びながら。
おいしい珈琲・紅茶をご賞味ください♪

 
 

ピラミッド

古くは諏訪が元で
諏訪から島根の出雲に行ったのではないか?
諏訪に行くとそのような検証が
じっさいに感じ取られる。
 
**
 
『出雲および大和で、
神奈備山とよばれる一連の円錐形の山が篤い信仰の対象とされたのは、
三輪山と同様に、それらの山々がいずれも「甑立ての蛇」に擬らえられたからに他ならない。
この神奈備山に関連して、
石塚尊俊氏は「ハヤマ信仰」を捉え、
注目すべき所見を述べておられる。
 
「葉山と神奈備」
福島県相馬地方では春・秋二度、
神を葉山という山から迎え、
またその山へ送る。
つまり神去来の本源として葉山という
特定の山が考えられている。
相馬領内で葉山とよばれる山は、
いずれも頂上の尖った山で、
一種の神奈備山である。
(『山陰』(一九五六年五月十一日)より要約)
 
(中略) 
 
この神奈備山から神を迎える信仰も
出雲に限ったものではなく、
ひろく民族に共通する信仰から
はじまっているかも知れない、と述べておられる。
 
「ハヤマ信仰
東北地方に多い作神信仰の一つ、春秋二回まつる処が多い。
祭神ハヤマサマは山の神・田の神で
祖霊の性格を持つと思われる。
山には大てい神殿はなく、
臨時の祭場に神を降ろし、
潔斎した村人がノリワラから作占をきく・・・。」
(大塚民族学会編『日本民族事典』五二八ページより要約)
 
というのであって、
神奈備山とハヤマは山の形が似るばかりではなく、
その神の本質も相似である。
(中略)
ハヤマには羽山・端山・葉山などの字が宛てられるが、
おそらくハヤマは蛇山(ハヤマ)であって、
蛇は古く本土でも沖縄でも山の神で、
実りをもたらす作神と同様に祖霊でもあったからである。
山そのものが信仰の対象であれば、
神殿の必要もないわけである。
 
(中略)
 
トグロを巻く蛇を連想させる
円錐形家屋は、
縄文中期に始まるという円形竪穴住居にみられる。
(中略)
これは神奈備山同様、
「甑立て(こしきだて)の蛇」の姿に相似である。
(中略)
この縄文竪穴住居に関連するものに、
諏訪大社に伝承されていた
「御室神事」がある。
御室神事は諏訪上社の冬祭りであって、
旧十二月から翌三月まで
ご神体の蛇を土室の中に籠らせる神事である。
(中略)
この蛇体が籠るこの土室は、
冬祭りから翌三月まで、上社最重要の祭事の場となる。
(以下略)』
 
吉野裕子著「蛇」より
 
**
 
諏訪から戻ってすぐの先月末、
諏訪に行く前から八坂刀売神(タケミナカタノミコトの妃と言われる)
のラインで気になっていた
地元葉山の森山神社のクシナダヒメにお参りいたしました。
お参りさせていただいているとなぜかトヨタマヒメと浮かぶので
わからないままに心に留め置きます。
 
ここでは年に一度
地元ヤマトタケルの湧き水を用いて麦粥を焚き
一年の作物の状況や天候を占うご神事が行われています。
 
地元葉山には「葉山」という名前のお山はないのだそうですが
上記しました引用の内容を加味すれば納得するものがあります。
甑形の山裾にこの森山神社が建てられています。
 
今回お参りで訪れた際に
新しく今年の占いの結果が出ておりました。

豊作
天候平穏

余談ですが
このときはなぜか拝殿の左側が氣になり
お参りさせていただくと、
浅間神社が。
月と日の文字。

 
去年初めて諏訪の森の奥の泉を訪れてから
コノハナサクヤヒメが身近に感じられていましたが・・。
 
 

駿さんの新作みてきました。その2

私は動きに関して、
アニメーターさんのようなプロではないから
専門的なことはわからないのだけれど、
それでも今回の新作を観たとき、
あれ?と思った。
 
なんだかジブリっぽくない動きだなぁ、
と感じる場面が何度もあり、
それにCGをこれまでにないほど
目立って多用していた。
 
駿さんのご年齢から
これまでのようにパワフルにすべてを統括することが難しくなってきており、
多くのことを信頼できるスタッフに任せた、
という話も聞いていたので
そういうことなのかな、と思いました。
もともとアニメーターであった駿さんの
動きに関しての徹底ぶりは
これまで何度も目に耳にしてきたこともあって、
今回の動きへの違和感は、
(本当に感覚的なものなのですが)
『ジブリらしくない』と初めて
思わされるものでした。(もちろん慣れ親しんだ「らしい動き」もたくさんあります!)
 
けれど、そうしてまで
駿さんが伝えたかったことがあるのだと
映画を観てわかりました。
 
たった一種類のポスターのみに絞って
一切の宣伝を打たなかったのは、
プロデューサーの鈴木さんの意向だとききます。
これまで宣伝することで何が起きていたのかを俯瞰でみれば、
今回宣伝がなかったことが何を意味するのか。。よくわかるような気がします。

つまり、ポニョ然り。
広告代理店を儲けさせねばならない
という鎖から解放されたことで
前述したように、
今回は自分らしく本質をようやく描くことができる基盤ができた。
例えばYouTubeでも
中央政権の意向から外れた
歴史や政治のことを述べると
広告収入がはがされるでしょう。
構造はそれと同じで、
事前にそういう枷を自らはがしたのだと
私は理解しています。
 
何より伝えたいことがある。
それを宣伝広告によって
ズレを起こさせたくなかった。
これまで何度も宮崎さんは、
ジブリ作品への世論の理解度について
『何でわからないのかなあ!』と
言っていたという話も聞きました。
伝えたいことが伝わってない。
 
今回の映画で
これまでご自身でしてきたことを
スタッフに任せ、
宣伝を最小限まで剥がし、
伝えたかったことは何なのでしょう。 
 
 
星読みをされている方々のお話が
足並み揃えてこれからの数年間は
大変な時代が来る、と言っています。
この映画のなかでもそれを示唆する台詞が
ラスト近くにあります。
 
振り返ってみると
宮崎さんの作品は
世の中の大きな流れを
一足先につかんでは伝えて来ていました。
おそらく始めは駿さんご本人も
そうとは知らずに、
だったのかもしれません。
 
地震と津波は未来少年コナンでも
繰り返し描かれていますが、
サリン事件、東北関東震災の津波、
大小の作品に描かれたことが
既視感をともなって
これまでこの世に実際に起こっていることに、
やはり周りのスタッフの方々も
気付いていたと思います。
 
年数をかけて映画は作られますから、
作品が公開されてそのあと
実際に現象として起きていたことが、
だんだんとそのタイムラグが狭まってきて、
短編作品On Your Mark公開のときには
現実に追い付かれた、
と言うお話も聞きました。
 
 
宮崎さんは、ご自身のことを
不動明王の化身だと仰っていたそうです。

ですから
ポニョの世界観に
セオリツヒメのシステムが反映されていることも然り、
今回の新作においても
不動明王、セオリツヒメ、ヤマトタケルの流れと視野でみて行けば
とてもシンプルで分かりやすい映画になっていると思います。
(不動明王のことについては
最近になって目黒不動尊の口伝の解禁から
納得することが現れてきており、
またセオリツヒメ、
ヤマトタケルについては
私もご縁が深く、
これまで何年にも渡って
おぼえがきしてきていますので
お読み下さってる方々には
ピンと来るものがもしかしたらあるかもしれません。)
 
駿さんは、
いわゆるシャーマニックに
作品を作られていて
(ものづくりには大なり小なりあることですが)
伝えて来ていることは
これから起きる大難、あるいは大きな浄化、破壊と再生でした。
それに付随する魂の成長の物語は駿さんの心の顕れかもしれません。
今回も今後起こることについて
登場人物の台詞にはっきりと伝えてきていました。
 
その駿さんのお伝え役のお役目も
今は終わりが見えてきて
『渡せるものは渡したのだから
あとは自分の道を決めなさい』と、
この作品で、この地球のこの次元に生まれてきたお役目の扉をパタンと閉めました。
この作品のラストシーンと重なり
心が震えます。
 
長きに渡って伝えてきたこと、
すべて渡し終えて
あとは自分で決めなさい。
君はどう生きるのか。
 
そういう映画だったと思います。
そのために生まれてきたかたが表現し尽くして
最後に綺麗に扉を閉めたその瞬間を
見せていただいたと思いました。
 

『何でわからないのかなあ!』
方舟を作って沢山の人々を救おうと呼び掛けたノアも
きっと駿さんと同じ台詞を言ったかもしれません。
 
 

蛙は黄泉よりよみがえったイザナミの象徴

 

駿さんの新作みてきました。

劇場公開の年に「崖の上のポニョ」を映画館で観てからずっと
今日観たこの映画を待っていたのだと思う。
 
ポニョを観終わったとき、
『いまはわからないけど
きっとあと5年ぐらいしたら
わかる』ような気がした。
そしてその予感は当たっていたように思う。
それから本当に5年位して
わたしもセオリツヒメのことを
させていただくようになったから。
 
ポニョの中で描かれていたことが
年々紐解かれてくうちに、
さらに遡って
宮崎さんは「未来少年コナン」のときからすでに、
セオリツヒメのことをされていたことが
手に取るようにはっきりとわかった。
コナンの最終回を観たときそう確信した。
 
そしてポニョでは
『宮崎さんもこういう映画を作るんだ。。』と思った。
母性と子宮、羊水に溢れた生と死の世界をみせられていたので。
それは言葉で分かりやすく言い表せば
『生まれて来る場所と死んでいく場所は同じ』
という、女神を中心に置くいわば黄泉の世界観だった。
 
ポニョが分かりにくい作りになっていたのは
沢山の制限(特に時間)があったからではないかな、、と思う。
そのぶんポッドキャストの方で
プロデューサーの鈴木さんが
それとなくフォローしていたけれど、
それもどれだけの人々に届いたのか。
 
そのポニョの中で描き切れなかったものが
「君たちはどう生きるか」に描かれていてはっとした。
今日、映画をみてきて
駿さんはちゃんとすべてわかっていたんだ、と思った。
ついにセオリツヒメが火を持った。
 
とても分かりやすく、
そして自分らしく、
本質を正直にようやく描くことができた
作品なのかもしれない。
少なくとも
宮崎さんはこの映画で綺麗に扉を閉めた。
まだこの世界にいるうちに
この映画を届けてくれたことに感謝です。
ポニョを観たときから、この映画をきっとずっと私は待っていたから。
心満たされました。
 
エンドロールが出たとき、
舞台だったら大きな拍手をしたかった。
実際にはがらがらの客席から
小さく長く拍手しながら
なにかに満たされ心震えて、
お祝いしたい気持ちになりました。
 
なので私なりに
お祝いのプリン✨

セオリツヒメのシステムを辿る仲間として
本当に素晴らしい映画でした***
 
まだまだ書きたいことはあるけれど
それはまたタイミングが来たとき
別の機会に。

13コの積み木でできている世界。