タケミナカタノミコト ~自ずとそうなる

このあいだ、
『新しい地球を作らなくてよい』という
メッセージがきました。
 
これは含蓄深いと思い
丁寧にその本質を探りながら、
ふと気がつくと
タケミナカタノミコトのことを思っていました。
 
記紀に記される国作り神話のなかで
ヤマトのタケミカヅチに国を譲れと
迫られたタケミナカタノミコトは
新しい国作りを良しとしなかった。
 
新しくつくらなくてもよい、というその意味は何だったのだろうと
そこにあえて焦点を絞って
丁寧に視てみます。
 
タケミナカタノミコトはその後
諏訪に封印されるわけなのですが、
実際に諏訪に訪れてみると
ここは一筋縄ではいかない
様々な外国の文化が相当古くから
入り込んで来ていることがよくわかります。
 
タケミナカタノミコトが本当に封印されたのなら
何故こんなにたくさんの諏訪神社が
日本全国にあるのでしょう。
 
タケミナカタノミコトの后のヤサカトメノカミも謎の人物で実態がわかりませんが、
わたしはクシナダヒメの系列のかたではないかと思っています。
 
とすると御渡りでクシナダヒメに逢いに行くのは
スサノオになってしまいますが、
ヤサカトメノカミの、ヤサカは八坂でしょうか?

諏訪周辺、八ヶ岳の八にまつわる数字も気になります。
 
わたしは諏訪という土地に、
なぜかイエス・キリストを関知していて
聖母子像の姿形も顕れたりもしておりますから
あながち外れではないと思っています。
 
旧約聖書に書かれているものと
全く同じ内容の儀式を諏訪大社で行ってきていたという史実も興味深いですし、
聖書に出てくるモリヤ山と同じ名の山が諏訪にあることもただの偶然ではないでしょう。
 
聖母子像と言えば、
富士山の山中湖の諏訪神社にあるトヨタマヒメとその子ウガヤフキアエズ(三島家口伝ではイソラ)が彫られている欄間があること、先日の富士山訪問でガイドをしてくださったトヨタマヒメさんが教えて下さいました。
まさに聖母子像です。
 
やはり諏訪とキリスト
あるいは旧約聖書との関わりには
無視できないものを感じます。

わたしが
ヤマトタケルとイエス・キリストを繋ぐポジションにタケミナカタノミコトを感じていること、
長年不思議に思ってきましたが、
それぞれの土地を訪れることでその不思議もだんだん明かされてきていると感じます。
 
こういった背景のなかでの
メッセージ『新しい地球を作らなくてよい』。
 
この『作らなくてよい』という文言は
わたしには
『自ずとそうなる』
という風に感じ取られます。
 
わたし個人的にも
すでにおぼえがきしましたように
『もう新しいものをつくらなくてもよい』とのメッセージ受けて
魂が安堵したお話を書きました。
これも、
新作に追われて次々新しいものを作るのではなく
『自ずとそうなる』ということだったのかと、
改めて思ってみたりしています。
 
すでにそういう『自ずとそうなる』システムが今の地球に稼働しているので
ただその波に乗れ、と言うことかもしれません。

 

地球創生と誕生の音

リラ経由で
宇宙から元来私自身の持つテンプレートを
地元の産土神社にて信頼できる方より
もう3年ほど前に降ろして頂いたことがあるのですが
それには現在の三つの土の弦楽器についての詳細が含まれていたのだと
今になって分かります。
 
ライアーというリラ経由の竪琴がありますが
こちらは皆が良く知っている
既存のドレミの西洋音階に基づいて
作られています。
基準となる音が定められて
調音されて、演奏されるもの、とされています。
何故ならリラの特性がそうだから。
音階を整理してきちっとしたい、という特性がリラ星人にはあります。
 
分かりやすく比べて話しますと
シリウス人は
そういった既存の音階に縛られなくても良い、
という性質がありますから、
彼らの音はドレミには縛られない自由な音で調和されて行きます。
 
こういった話を松村潔さんがお話しされているのを
興味深くお聞きしたのですが、
これは、シリウスは、
まさに現在わたしが製作している
土の弦楽器のことだわ、と思うのでした。

リラから降ろしたテンプレートで
現在シリウス人の特性の強いわたし(渡し)が作っているわけですから
音階に縛られずにオリジナリティー甚だしくも
地球の自然と調和するものとなるのは当たり前ですよね。
 
『誕生と幸せな幼年期』を担当するために
この星(地球)に生まれてきたわたしからの視点では、
コノハナサクヤヒメ及びその姉妹である三女神は
地球創生の原初のいわば自然神なのだと
先日の富士山の泉にてその源のお姿を顕してくださり、
またそのすぐあとの答え合わせの数々が顕れましたことで
ようやく理解することができました。
 
根源の姿も
人の想う姿も
どちらも本物のコノハナサクヤヒメ。
千穂さんがそうおっしゃっていたことにものの道理がありました。
根源の姿では人が畏れてしまうから。
(そんな神話も古事記をはじめ多く日本には残されています。)
 
昨今の様々な経緯を経て
コノハナサクヤヒメの顕れる泉で奏でるための
土の楽器が求められて新たに生まれそうです。
 
コノハナサクヤヒメのことについては
富士山から戻ってきてから解ることが日に日に増えて行っており、
地元の亀ヶ岡八幡宮にても、
富士山のおびん水についてのメッセージ受けまして
詳しくはまだ書けませんが、
来年からいよいよあらゆる意味において明けて行くのを感じます。

 

泉源をたずねて その5

ツクヨミが書けといってくる雰囲気なので
月のことかいてみますね。
 
ここ数日のおぼえがきは突然にしてスイッチが入ったように、
ほぼ自動書記のような状態で
大抵起き抜けにパソコンを開く間もなく
次々浮かぶ文章のメモを忘れないうちに取ってから
それをほぼそのままブログにアップさせてもらっています。
文脈や表記など分かりにくいと思われる箇所はなるべくあとから調えておりますが、
完璧ではないことご了承くださいね。
 

 
竹取物語の原文を読まれたことありますか?
この物語のラストシーンは富士山です。
 
この美しいラストシーンが省かれるようになったのは一体いつからなのでしょう。。
この物語にとって大切なシーンだと思うのですが。
 
今は昔
竹取の翁という者ありけり
野山にまじりて竹を取りつつ
よろずのことに使いけり
 
学生時代に暗唱させられた記憶がいまもそのまま残っています。
 
竹から生まれたかぐや姫は
翁と嫗に大切に育てられ美しく成長します。
 
年ごろになると求婚者が次々と現れますが
かぐや姫は無理難題を押し付けてすべて退けてしまいます。
ただ一人を除いて。
 
ただ一人というのは帝でした。
かぐや姫と帝は心通じ合わせ
約三年間の和歌のやり取り、文通を続けます。
 
かぐや姫はこう言います。
私が地上の者ならば
あなたのもとへ嫁ぎましょうが、
わたしはそうではないのです。と。
 
やがて月へと帰る時が来て
かぐや姫は帝へ最後の文と不老不死の薬を
使いの者に渡して送ります。
 
使いの者からそれを聞かされ
帝は受けとることを拒みます。
今さら私がそれを受け取って何に成るというのでしょう。と。
 
そして帝は使いの者にたずねます。
この国で一番高い山はどこにあるか、と。
 
使いの者は、
駿河にあります、と答えます。
 
そして帝は使いの者に頼んで
かぐや姫の文と不老不死の薬を
富士の山頂から焚き上げ天へとお返ししたのでした。
 
美しい富士の山頂から
一筋の煙がすうっと天へのぼって行きました。
 

 
記憶に頼って書いていますので
多少の記憶違いはご容赦頂きたいのですが、
ほぼこのような感じで原作のラストは展開していたと思います。
気になるかたはぜひ原文を当たってみてください。
 
ここで私が感じるのは、
かぐや姫との三年間の文通の間に
帝は覚醒していったのではないか、
覚醒というのは、みずからの出自と
この地上に自分が生まれた意味を憶(おも)いだしたのではないかということ。
 
かぐや姫は初見で帝の中に眠る種を見いだしており、彼のアストラル領域でもガイドをしていたのかもしれません。
 
このようなことは今でこそ
私自信も体験し、おぼえがきにこれまで綴ってきております。
現代ではひかやしの対象に成るのを避けて
隠されがちだっただけで、
本来特別なことではありません。
 
月にもたくさんのパラレルがあり
かぐや姫がどのパラレルからお越しになったかたかはわかりませんが、
少なくともロケットで物理的に行くのではない方法で月や宇宙に行けること、
古神道の本にも多く書かれており、
竹取物語の帝という存在は、
今で言うスターシードなのではないかと思わされます。
茶化しや冷やかしで現代は混沌としてしまって居りますが(それでも開く扉は開く)、
素直にクリアに
これら不可視の世界のリアルなできことが
竹取物語には描かれています。
 
わたしが歩いたサンティアゴ巡礼道をご縁に出会って
たくさんのお話と指針を示してくださった古神道の修道士さんから、
『記紀だけでなく竹取物語や万葉集も読み込んだ方がよい』と伝えられたのは
正統な日本史と謳う記紀が書き残したくなかった真のことが
それらには記されているからなのだと今では思っています。
 
世界最古の小説と言われる「竹取物語」に記された月の世界と富士山。
 
月も富士山も
今回の泉源をたずねる旅を
ずっと見守ってくださっています。
 

11月27日の満月

 
つづく
 
*
泉源をたずねて その1
http://majo.moo.jp/oboegaki/?p=17745
 
泉源をたずねて その2
http://majo.moo.jp/oboegaki/?p=17778
 
泉源をたずねて その3 
http://majo.moo.jp/oboegaki/?p=17861
 
泉源をたずねて その4
http://majo.moo.jp/oboegaki/?p=17923
 
*
トヨタマヒメ富士日記に綴られていることと
合わせてご覧になってみてください。
この地球に生まれて、
私は、人生って面白いなあとつくづく思います*
 
『双子座の満月に、またあの方が富士山にやって来た 1128』
https://ameblo.jp/mizunotunagari3776/entry-12830483201.html

『KONOHANAさんを探して… プロローグ (1128のこと)』
https://ameblo.jp/mizunotunagari3776/entry-12830981484.html
 
『日、月、星 を祀る場所』 KONOHANAさんを探して その一
https://ameblo.jp/mizunotunagari3776/entry-12830862731.html
 
 
 

磐座

昨年5月に訪れた磐座のことがまた立ち上がってきています。

 
土のシンギングボウルを顕現するにあたって背中を押された場所でもあり
土の弦楽器「わたつみ」さんの故郷です。
 
「わたつみ」さんは向津峰の磐座の大地のエネルギーと
諏訪の山の奥の母なる泉のエネルギーが合氣され、
産産しい誕生のエネルギーで成されています。
それは思えばどちらも縄文の、もしかしたらそれよりもっと古い
太古からのエネルギーの合氣でした。
宇宙的なものの顕現なので三次元的な時間軸では測れませんが。
 
こういった場所に呼ばれ、呼ばれたことで
じつはずうっともう昔からわたし自身にご縁のある場所であることに氣づき。。
地球に生きるということは憶(おも)いだすということなのかもしれない。
 
改めて昔見た舞台『ラ・マンチャの男』に出てくる台詞を想います。
 

 
『私はこれまでありのままの人生というものを嫌というほど見てきた。

……息をひきとる仲間を両の腕に抱いたこともある。
彼らはみな、うつろな目をして、
おれはなぜこうして死んでいくのかと私に聞いていたのではない。
いままでこんな人生なんのために生きてきたのかと私に聞いていたのだ。

ああ

人生自体がきちがいじみているとしたら、

では一体、本当の狂気とは何か?

本当の狂気とは?

夢におぼれて現実を見ないのも狂気かもしれぬ。
現実のみを追って夢を持たないのも狂気かもしれぬ。

だが、一番憎むべき狂気とは、
あるがままの人生にただ折り合いをつけてしまって
あるべき姿のために戦わないことだ。』

 

 
何のためにこの地球に生まれてきたのかを憶(おも)い出すことは
パンドラの箱に閉じ込められてしまった魂の救済そのものなのかもしれません。
そしてようやく、それを誰しも自らできる時代になったということです。
 
 

『金はすべて輝くとは限らない』

金はすべて輝くとは限らない、とは
J・R・R・トールキンの言葉ですが
「うすゞ」と「掌中うさぎ 薬玉」の制作において
つくづくリアルにそれを感じました。
物質的見解ですが意外とそれだけでもなかったのでおぼえがきに記してみます。
 
薬玉は王様の古墳のお山の天然の陶土そのままと
可塑性をあげるために慣れ親しんだ赤津の土を合わせて、練りあげた土でお作りしました。

天然の土は成分が一定ではないため
同じ土でも同じように焼き上がるとは限りません。
前回うまく焼き上がったからといって
今回もそうなるとは限りません。
そういう意味で
金を施したにも関わらず
必ずしも輝くものとなりせんでした。
 
稀に輝きを伴って窯から出たものは
ごくわずか。
型どりでいくつか作るイメージが来たのでその通りにしたのは
そういう意味だったのか、とわかりました。

いつくかのなかのひとつふたつだけ
輝く金のうさぎたちに精麻を寄り合わせた紐をつけて作品に仕上げました。
 
それがこれまでにネットや企画展に
出させてもらったものたちです。
 
クリアリングしてあるので
身に付けたりご使用に成ることで、
それぞれに合った環境でエネルギーを蓄えて行くタイプの作品たち。

今年になって
『まずは自分の分を作れ』とのメッセージいただいてからはそうしています。
私が使うと私の得意分野宇宙からのエネルギーがこれら作品に宿るのがよくわかります。
 
最近は掌中うさぎ薬玉を
ハートチャクラ胸の真ん中に来るようにして下げていますが
可視と不可視のバランス調整をしてくれているようで疲れません。
 
土の働きには宇宙的な無限を感じます。
 

「掌中うさぎ 薬玉」は金龍のエネルギー。
オーダーも承りますので気になるかたはお問い合わせください。

『金はすべて輝くとは限らない。さまよい歩く者が皆迷っているとは限らない。年老いても強い者は枯れない。深い根に霜は届かない。』
J・R・R・トールキン