きょう
泉の前で
ひとりの幸せを思って
あまりに澄んだ心から流される
あまりに美しい涙をみました
なんて・・
なんて自然で幸せな日
自然なほほえみとなみだが
あまりにうつくしくて 言葉にはできず
ただ心がふるえました
泉のかみさまにうたをうたいました

きょう
泉の前で
ひとりの幸せを思って
あまりに澄んだ心から流される
あまりに美しい涙をみました
なんて・・
なんて自然で幸せな日
自然なほほえみとなみだが
あまりにうつくしくて 言葉にはできず
ただ心がふるえました
泉のかみさまにうたをうたいました

弟橘姫のみたまが永遠の復活を遂げ
めぐりめぐりていまここで
初めて出会ったときのあの瞬間がよみがえる
ふたり 舞い
ふたり うたい
地上の楽園で
*
10月21日から訪れていた諏訪と
10月31日に訪れた江ノ島の、
特別な祈りの顕れのそれぞれの場所のふたつの泉から
お水を汲ませていただきました。
その二つのお水を昨日、
諏訪と江の島にご縁あるかたが
合わせて王様の古墳にお持ちくださいました。
11月8日のハレの日。
合わせたそのお水を古墳の王様にお届けしたのでした。
王様と弟橘姫に
ちいさなお食事をご用意させていただき
笛を吹いて
お祝いさせていただきました。
その瞬間大地から湧きあがるようにつたわる
わくわくとした振動は、
そのまま私のからだの背骨に入り
仙骨、尾てい骨に響き渡り
鈴を振るようにいまも祝いの振動を続けています。
昨日、特別な満ちる月の日の出来事、
お写真にてご縁ある方へご案内、おとどけいたします。
*








今回生まれなおしや復活にちなみ、
いつもとはことなる自分にとっての初めての道を通ってまいりました。




























そしてこの日の夜、
満月の皆既月食を迎えたのでした。
きのう、家の屋根の上から望んだ月食の様子は
ひとつまえのおぼえがきをごらんください。

月がすべて影ったとき
まるで反転するかのように満天の星星が顕れました。
心ふるえる一日でした。
いまはあらゆる面での過渡期で、
私もそうですが
私の周りの方々も激動の時代を生きて活きておられます。
それでも同じ先を見ている方々とは
益々ご縁が深まり
最も重要なことは
言葉でお伝えせずとも
すべてが瞬時に伝わるような
レベルアップがすでに更新済みとなっていて。
懐かしくも新しい世界が
すでにあちらこちらに顕現してきて
そういった場にご縁深い人々がひきよせられ
楽園を構築しているのを
ことあるごとに目の当たりにします。
それが頻繁になってきました。
*
昨晩は、
中村加奈子さんと宇佐見仁さんが主宰される
香風舎の特別な企画『煌 星 音 軀 命』に伺っておりました。
11月3日から8日に渡る毎日毎日がとても興味深い内容で、
昨日会場でいただいたフライヤーに在りましたことば
「人の存在は宇宙そのもの
わたしたちの中にある、
星々のひかり、
響きとであう六日間」
は、私にとってまさにこころに響く文言でした。
昨日は、豊英秋先生による(この日初めてお会いしたのですが
親しみこめて先生と呼ばせていただきますが)
こえとうたのワークがあり、
それはそれは貴重な体験をさせていただきました。
おそわりながら皆でうたいましたのは「東遊」。
今ではあまりうたわれることのない古代歌謡だそうで
その言葉あらわれ一つ一つ。
おと(こえ)の出し方。
手で舞うように動くひれのゆらめき
顔の明るみ
うたはすべてであり
そのすべては地上に楽園のエネルギーを顕現することを
体験してしまいました。
うた(おと・声)にされることばには、
研究し尽くしても意味がない(意味不明)とされる
歌詞のようなものがあって、
いまでも学者さんの中で喧々諤々されるそうなのですが、
これら意味不明のおと(歌詞)は、
じっさいにおと(声)にだしてうたってみると、
そして豊先生のなんともしなやかであたたかくそれでいて
すっと一本の光のような筋の通ったお伝えにより、
意味のないことばなのではなく
これは、宇宙の言葉ではないか、と、
心が反応するのが分かりました。
いまでいうライトランゲージというものですが、
これは本当に、
昔の人こそ普通に感知し発音しうたっていたのでしょう。
昨日の体感からわたしはそう考えるのが普通に思えました。
まずはおりてきたそのままの音ありきで、
それをだいぶん後の時代になって
文字というものができたときに、
表記する都合上、
たとえば、エとオの間のような音などは「エ」と、
乱暴に、あるいはしかたなく、まとめられてしまい、
本来根源から来ていた音は失われてしまったのでしょう。
また、意味が付随されている音(歌詞)もじゅうぶんにありますが、
それらをうたうおとひとつひとつに
感情を乗せずに、ただたんたんと
エネルギーの振動だけになってあらわれるようなうたいかた、
それはまるで、
風そのものだったり
波そのもののうたのように感じられました。
特に今のような陶芸の顕現をするようになってから、
日常の中でふときく音楽、
メロディーや声による感情の表現やメッセ-ジ性のある歌詞などの
人の意思が働いている歌や音楽が、聴けなくなってしまいました。
けれどそのなかで唯一雅楽だけは
日常のなかでも聴くことができる理由は
まさにここにあると思います。
たいせつなおとやうたひとつひとつが
豊英秋先生の純粋な感性で真っ直ぐよみがえっていくのを
昨日は幸せなことに目の当たりにした思いでした。
私はスペイン在住時、
カトリック教会の聖歌隊で歌っていたことがあるのですが
そのうたは、音律や教会の建築構造で
地上から天にのぼる仕組みになっているのですが、
きのうの日本古来のうたは
地上そのものがそのまま天となる響きを持っていました。
これは今の時代とても大切なことだと感じました。
それから「ととのう」って東の国の方言なのですね。
ととのう、ということだまは、
私もよくつかわせていただくのですが
まさかこちらの方言だとは知らずにいました。
やはり土地のことばには
根源に繋がる力があること(それこそことだま)を思うのでした。
東遊。
うた遊び。
昨日のあの響きが背骨に染み入っていて
このうえなく心地よい地上の楽園の振動をつづけています。
ほんとうに豊かな遊びがむかしはあったのだなあと思います。
わたしがうたいたいうたは、
わたしがいつもやまやうみでうたううたは
きっと昨日の体感があったから、
よりいっそう変わっていく予感がします。
ひとりひとりが中心となり
水紋のように広がり重なる振動の世界。
昨日一日、あの場にいられたこと、
感謝の気持ちでいっぱいです。

香風舎『煌』11月8日まで
会場に展示されているエネルギー世界に満ちた
石塚雅子さんの絵画も
この宇宙船のような劇場空間の住人・・必見です。
https://www.kofusha.jp/pages/661187/page_201609281751

なぜか急に始まって
朝起きた時と夜寝る前にほんのわずかな時間
龍笛(プラ菅)を吹いている。
ほんとうにただ吹くだけなのだけれど
もうずっと前に赤坂の氷川神社の集まりで短期間教わっていた時は
(思えばすでにあの時も氷川神社にお世話になっていたのでした)
音すら満足に出ない感じだったのに、
あれから全く吹いていなかったのにもかかわらず
不思議といまは音は出る。
山や海、湧き水でうたうことが分かってきたからなのかもしれない。
何かしようとつい意思が働きだすとすぐ音は出なくなるので
本当に深呼吸するみたいに
3、4音か、もう少しだけ音を出したらすぐやめている。
捕まえようとしても捕まらない。
どこかちょうどよい毎日の風を呼ぶ日課のようなものになってきた。
今朝、2年前に元八幡さんに笛を吹くお約束していたことを突如として思い出す。
笛を吹く経験もほぼないのに不思議なお約束をしたものです。
(写真はそのお約束をしたときにお社で撮影させて頂いたもの)
うさぎが来ています。


八ヶ岳のリトリートよりもどりました。
終始提示されつづけた数字
降りてくる来年のメッセージテーマ
満天の星のもとで
きらめく天の川
オリオンの流星たち
光苔
星の草
豊潤な森と泉の色彩
命輝かせる植物たち
広がる振動に答える鹿の鳴き声
ゆらめく火を目に映してうたい
霊水をいただく
突如として空に顕るジーザスエネルギー
タケミナカタの深く透き通る光
魂の奥の
最も純粋な泉に触れて
よみがえる記憶
今回のすべて
どの瞬間をとってみても
高い振動を保ちながら
時空を超えていくのが始終視えました
冒険のようにして夜の深い山を越えて海に戻ったとき
ああ、山から海へ繋ぐものがあったのだと
ああ、山から町へ繋ぐものがあったのだと
わかったのです
日常と完全に切り離されたハレの日の祭りのようにして
すべてのタイミングがみごとに合い
日常と完全に切り離された泉のほとりで
日常と完全に切り離された縄文の遺跡で
時空を超えてよみがえる記憶と想いは
理屈などは優に超え
高い振動に震える血潮に全身へと運ばれて
それそのまま日常へと持ち帰る。
今日、山から持ち帰ったものを
地元の海に巫女舞の方恵里さんとおつなぎ致しました。















言葉では到底言いつくせないことばかりです。
こころよりありがとうございました。