つれづれ

窯の温度が下がるのをただ待つだけの今日一日。
 
つれづれに。
 

 
薬を与えられることなく
土から離れてまもない
代々の種を継いで育てられた野菜の底力を心身が知ったからなのか
肉と魚をまったく食べなくなって
べつにビーガンとかそういうのではなくて
きづいたら自然にそうなっていました。
 
それが珍しく2、3日前から生のお魚が食べたくなって。
地元のスーパーが地元の漁師さんと提携してるので
買いに行こうかなと思いつつ
いつも歌いに行く海とは反対側にあるせいか
食べたい気持ちもだんだん薄れつつ、
私のお口は生のお魚を食べずにいた。
 
今日ちょうど、お昼時に郵便局と買い物に。
あ、そうだと、地元スーパーに行くはずが、
気づいたときにはお寿司屋さんのカウンターに座っていました(笑)
 
昭和な感じの一軒家。
昔から地元のお爺さんが3人でやっているお寿司屋さん。
 
ここが大好き。
職人さんが枯れた手つきでにぎるのを見るのが大好き。
カウンターに座って。
もくもくと食べて。
 
そう、あまりに美味しいから自然と黙食になるの。
 
心地よくゆったりと
食べる順番心身に訊いて、
お寿司もガリもお出汁の効いたお吸い物も茶碗蒸しも
ちょうどぴったり食べ終わり。
お腹、幸せ、お爺さんのお寿司にほろ酔い。。
 
 

 
7日の新月に行なった山北の龍集山でのワークショップで
美夕紀さん企画の黙食も、
あとになって、このご時世柄、
「あ、あれってもしかして会場が公共施設だったから?」とか
「参加者が10名を超えたから?」とか
「だからお昼のお弁当は黙食だった?」と氣づいたりしたけれど、
いえいえ、まったくそんな考え、あの時はみじんも思いつかなかった。
 
だって龍集山の水源のお宮で
みんなで音開きして
ものすごい体験・・ほんとうに言葉では言い表せない・・
をしたあと、
山を下りてきてのお昼の時間。
 
この黙食の時間は音開きで得たエネルギーをそのまま引き継いでいて
ランチタイムが分断されることなく
全ての流れのなかにあったのです。
 
ランチでも休憩でもなくて
全てがエネルギーであることを知った黙食の時間。。
強制されることではなく、それが自然でした。 
普段いかに食事の時間が食の本質から離れていたかを思い知らされる。
 
食を頂きながら視えるビジョン。
心に浮かぶ深い憶(おも)い。
 
豊かな食事とはこのこと。
 
 

 
三人のお爺さんのお寿司屋さんからの帰り道、
地元の和菓子屋さんで
ふんわりとろとろの塩豆大福を今日のおやつに連れ帰りました。