感謝の日常より

自然に歌がでてきます。

 

最近、鼻歌うたってますか?

町を歩いていて、鼻歌うたってる人をいつの頃からか見なくなったなぁと。私は、鼻歌は豊かさのバロメーターだと思うのです。

つれづれに先日の出来事をおぼえがきしてみます。

ご神具の制作をしていたまっただ中に、どうしても外出する用事ができて、町を歩いていたら、私の真後ろを歩いている女性二人の話し声が耳に入ってきて。それはなんと言うこともない単なる日常会話の内容だったのだけれども、ご神具の制作中は私の波動が通常ではない超越的に繊細な状態になっていたので、その女性二人の会話の振動が否応なしに耳に入って来続けるのがとてもつらかった。

狭い歩道の、なぜか私のすぐ真後ろでその二人の女性は話し続けておられて、私は、不協和音を強制的に聴かされ続けているような感じというのでしょうか、あまりにつらかったのでその時『いま私は私のために何ができるかな?』と心に訊ねたら、うたが出てきました。

海や山でいつもうたうように、いつもの声でいつものように歌いました。ただ自分のために。

すると二人の女性は、ぴたりと話すのをやめて私の真後ろにいたのを歩調を落として距離を置いてくれたのです。たすかりました。

単に『何この人、変な人~』と思われただけかも知れませんが、それは他人の評価であって私の軸では全く関係のないこと。そしてその時私が感じたのは、『町なかでうたうことってそんなに変なことだったっけ?』と言う新たな疑問でした。

私が子供の頃はけっこう普通にみんな日常のなかでうたってました。町のお店屋さん、買い物中のお母さん、通りすがりの人たち、誰でも自然と鼻歌が出てくる環境、それが普通でした。

人はいつから日常うたうことをやめたのだろう。他人の評価や他人の目線を優位に立ててうたうことをやめた?それはとても不自然なことで、もしかしたら人としてあり得ないレベルのことなのではないだろうか、と。自然の鳥はそんなうたいかたはしないよね、と。そんな疑問が心に湧いてきたのです。

人が人を監視して『それはおかしい』と定める。家で歌番組をみながらうたうのはよし、カラオケで歌うのはよし、特別に指定された空間でうたうのはよし、と、他人の目を気にして他人のお手本に習い、自らの内から湧き出すものを押さえ込んで無かったものとし続けたとしたら、人は何を失ってしまうのだろう。。日常はどうなってしまうのだろう。小さな小さな疑問が心に湧きました。

その日、私はそのまま、二人の女性のこともすっかり忘れてうたをうたいながら町の中を歩いていました。うたいだしたら、思いのほかとても心地よかったからです。私自身、町でうたうことにブロックがあったことに気づきながら。

こうして実際にうたってみると、町を歩きながらうたをうたうことは、以外とハードル低かったんだなあ、と。勝手に自分でハードル高いと思い込んでいただけなんだなあと、わかったのでした。

これからの時代、こう言った自分軸の思いや行動することは本当に大切になると言うことを体感で学んだ出来事でした。

1度、自分軸(他人視線の世界に生きるのではなく)で、町なかで鼻歌でもうたってみるとよいですよ。すると自分が何を失っていたのかハッキリわかると思います。

 

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