屋根裏のラジャー

イマジナリーは無力ではない。
この世界は光も闇もすべて自ら創り上げたものである。
イマジナリーは現実に成り得る。
 

 
少し前のおはなしになりますが
映画『屋根裏のラジャー』観ました。
 
なぜだかとても琴線に触れることばかりの内容で
最初から終わりまでほぼずっと泣き続けてしまって
映画が終わったときには頭がぐらぐらになってしまいました。


映画を観てから数週間経つのですが、
何度も何度も反芻するごとに気づくことがあって、
あらためてこれはとても深い映画だと感じ入り、
ようやく少しは言葉にできるかな?と感じられたので
おそるおそる・・おぼえがきしてみようと思います。
 

 
横須賀の映画館で見たのですが
小さな子供たちが何人も観に来ていて、
この映画の監督が『子供たちにみて欲しい』と
おっしゃっていたことがそのままに叶っていることを感じました。
 
ある子どもさんは
『あっ、小雪ちゃんがいる!一緒に写真撮って!!』
と、映画に出てくる小雪ちゃんの立て看板にたたたと駆け寄り
ママに催促していて、
どうやら二度目(か、それ以上)の観賞なのかなあ、と
微笑ましく思いました。
 
劇場内では、私が座った前の列に
お父さんが幼稚園くらいの双子の女の子とそのお兄ちゃんの
三人のお子さまたちと一緒で
一番でっかい塩味のポップコーンを席の間に二つ設置して、
正しい映画館での観賞ムード満点の幕開けとなりました*
 
この映画を子供たちのいる雰囲気のなかで観られたのがとても良かった!!

 
映画が始まって、
主人公アマンダの想像が次々に繰り広げられ世界が構築されて行く場面は、
これぞアニメーションの面目躍如!という感じで
まさに胸が透く思いです。
 
映画全体の色合いもとても美しかったのは
特筆するべきこととして印象に残っています。
 
アマンダの部屋の窓に飾られたステンドグラスのような飾りが
月明かりに透けて
洋服タンスに虹色の影を落としている描写など、
美術背景の非常に繊細な美しさに魂が震えました。
細部に神は宿る、まさにそんな雰囲気がありました。
 

 
イマジナリーというのは
子供がこさえる想像上の友達のこと。
やがて大人になり「想像」が別のもの「現実」に置き換えられると
彼らイマジナリーフレンドは消えて行きます。
 
今回この映画を見ていて
このイマジナリーフレンドというのは
別次元の自分、応身のようなものだと私は理解しました。
じふエネルギー体というのは現実にありますから。
映画のなかで『幽霊(4次元)とは違う』と明言しているところから
5次元辺りに存在するパラレル世界なのかもしれません。
 
ここで次元という言葉を使いますが、
これもあまり正確な言葉の表現ではないこと承知していますが
言葉でお伝えするすべとして
便宜上こう言わせてもらいますね。
 

 
別次元、エーテル体やアストラル体のことなど
この世界を作っている
エネルギーシステムとしてご存じのかたや
わかり始めたかたには
そう言う視点で視ていても
全く話に破綻がない映画であることが、
これもまた密かにすごいなあ、と思います。
これは理屈ではなく
やはり(図らずも)降りてきたものがある映画だと感じ、
そう言う映画は心にダイレクトに響きます。
 
例えば
イマジナリーが消えて行くとき、
(あるいは現れるとき)
小さな光の粒がふわぁ~と漂うのですが、
ちょうどこの映画を観る前に
私の回りにこの光の粒がふわぁ~と
しているのをみて、
あれは私のイマジナリーだったのだと共鳴してしまい、
理屈と時空を越えて
イマジナリーがそばにいてくれたのだと思うと
とにかく泣けてしまった。
 
この光の粒の表現、
大きさといい、動きといい、
(しかもなんとすべて手描きだそう!!)
これは「知ってる」人でなければこうは描けないと思いました。
いや、すごいです。
光の粒一つ一つのちからも。
 

 
物語のなかに、
主人公アマンダの母親リジーが幼かった頃の
イマジナリーフレンド「冷蔵庫」という名の大きな犬が登場します。
やがてリジーは大人になり
「冷蔵庫」のことをすっかり忘れて
イマジナリーと引き換えに
さまざまな現実の日常をいまは生きています。
 
けれどひとたび本気で憶(おも)いだすことで
視えなくなっていたものが
例え大人になっていたとしても
再びまた視えてくるようになる。
 
イマジナリーは
小さな子が大きくなって
大人になっても
いつでも、いまも、ずっと、
待っている。
 
あちらとこちらの次元の壁が
どんどん薄くなってきているいまこの時代に
この映画が公開されたのも
もしかしたら人智を越えて
必然的な流れだったのかもしれません。
 
世の流れや現象から
目に見えない世界を反転させて読むこともできますから。
 

 
ラジャーはアマンダのイマジナリー、
三次元からの視点で言えば想像上の友達です。
 
アマンダの家は本屋さんで
アマンダは沢山の本から
イマジナリーを創造することを体感的に学んだのでしょう。
そして本のちからでイマジナリーを育てるちからが強まることは、
アマンダの
本を愛する亡くなったお父さんの愛の深さなのかもしれません。
 
多くの子供たちのイマジナリーのちからが弱まってきているなかで
飛び抜けてアマンダのイマジナリーフレンドであるラジャーの存在が際立っている基盤はそこにあるように感じます。
 

 
イマジナリーは高次の現実と成る。
 
ラジャーはアマンダのイマジナリーですから
アマンダといつも一緒にいて
ある意味依存的に
(仕方がないのかもしれませんが)
行動をしています。
 
やがてアマンダが事故に合い
昏睡状態となったことをきっかけに
ラジャー(イマジナリー)の反転が起き始めます。
 
子供が創造することをやめると
イマジナリーは消える。
それは
大人になったり
アマンダのように事故に遭って
イマジナリーの創造が出来なくなったときに。
 
目覚めと眠りの狭間でラジャーは変わって行く。
目覚めていたものが眠り、眠りの世界のものが覚醒する世界で。
 
ラジャーが手にしたものはラジャーのはざまの世界では現実となり
消えることなく存在し続ける。
ほっぺの傷も
エミリのゴーグルも。
 
余談ですが
ラジャーの子役の声優さんが
初めはどことなくたどたどしい雰囲気だったのが
物語が進むに連れてどんどん役に入り込んで
ラジャーと一体化して行く感覚があり、わくわくしました。
声は時系列で収録されていたようで
映画のラストの絵が仕上がる前に変声期になりそうだということで
後半は、絵がまだできていないけれども
声だけ先に収録をしたのだという裏話を知りました。
 

 
ラジャーのとびぬけた生命力を吸いとろうと
バンディングという老人と
かつての彼が少年だったころのイマジナリーの女の子
(エネルギーが変質して屍のようになった存在)が
ラジャーを追いかけます。
 
この設定を見て私が受け取って感じたのは
やはりこの老人も女の子もイマジナリー世界のひとつ。
すべて自分の内にあるもの。
光も闇も。
だから何があっても絶対に大丈夫。
というメッセージでした。
 
ですから。。
ですから屍のイマジナリーとなった女の子は
アマンダとラジャーの命輝くイマジナリーを超えた
更なる高次のエネルギー世界を見て、
自分が何者なのか気づいてしまった。
似たような仲間が集まって同じ振動感覚に同調していると
なかなか自分が何者なのかなんて気づけないものですが、
比較するものがあると気づきますよね。
これは三次元の人間界でも同じ。
 
女の子は気づき、輪廻を自らたちきりました。
ポータルはバンディングの口の中にありました。
いまの言葉で言うと、
彼女はアセンション(次元上昇)したんです。
低い振動を抜け出した。
 
ここで
「死」というもののシステムが
こちらの次元からあちらの次元へと移る
魂の移行であるということをわかっていれば、
この映画における
バンディングとこの女の子のエネルギー体は、
やはり源はひとつのイマジナリー世界からできたものであり、
これまでどういう状況にあり、
そしてどうなったのか、
ということが理解できるのかな、と思います。
 

 
この映画のラストは
これを観た人自身が
いまどの次元に生きているか、どの次元の入口からこの物語世界に入ってきたによって
とらえ方が異なるようにいまは感じています。
 
私も初めは、ラストシーンで
あれ?なんで?
となったのですが
よくよく映画をあとで深堀して視てみれば、
ラジャーもまた
イマジナリーの次元の壁を越えて
さらに飛躍した世界に存在するものとなったことがわかり、
あらためて魂が震えたのでした。
 

 
『屋根裏のラジャー』
もう一度映画館の大画面で見たいと思って調べたけれど
(だって大画面で観るように作られている作品ですから。。)
いまはもうどこの映画館の上映も終了してしまっていて
ひどく残念に思うのでした。
また上映していただける機会を心待ちにしています。
 
少し前に図書館でこの映画の原作
『ぼくが消えないうちに』の
ラストの辺りを立ち読みしました。
原作の最後は映画と異なり細々とした後日談が語られていました。
 
例えば、
アマンダの親友ジュリアが、
彼女のイマジナリーフレンド「オーロラ」の話をするので、
ジュリアのお母さんが精神科にジュリアを連れていったことが描かれていました。
ジュリアのお母さんは、
リジー(アマンダのお母さん)に、
『あなたのとこのアマンダもまだラジャーとか言ってるなら、
良い病院見つけたの。紹介するわよ。』
と。 
さすがのイギリス児童文学。皮肉たっぷりに防衛線張ってます。
昔読んだ星新一のショートショートで
『本当に君に”それ”が見えているなら、
君は一生ここ(精神病院)から出られないよ。』と精神科医が患者に言う場面を思い出しました。
 
ともあれ、
『子供たちにみて欲しい』という百瀬監督の思いで作られた
「屋根裏のラジャー」には原作のこのような皮肉な場面はありません。
ただただ直球ストレートに
現実を超えたイマジナリーの世界が確かに存在すること、
そしてイマジナリーは愛の強さによって次元を超えて
高みの現実になることを清々しく謳っています。
 

 
映画を観終わって映画館から駅までの海沿いの遊歩道の灯りが
まるでイマジナリーたちの生命の光の粒にそっくりで
全くもってくらくらにやられてしまったのでした。

 
映画を観てから数週間経って
私はこの映画が本当に大好きだなあ、と思いました。
子供の頃に
何度も何度も繰り返し読んだ本や
いつまでも一緒にいたぬいぐるみ、
それらを大好きになったときの気持ちが
何だかそのまま甦ってきたのです。

ああ、子供の頃、
何かを好きになるとき
こういう感覚、
こういうエネルギーが湧いてきたなあ!!ということ。
ちっこい私が、
大人の私に(もう大人なんだから、とか、成長せねば、とか、
あるいは二次的に「昔好きだったもの」としてのストレートではない再会で)
おさえ込まれていた本当に深いところからのピュアな感覚が、
『屋根裏のラジャー』を観て自分がこの映画に共鳴したことで
(本当に最初から最後まで心が振るえて泣いてました。。)
ようやく安心したちっこい私が表に出てきて
いまの私と純粋に統合されたと思いました。
 
いまも、たまに自分の部屋の中で小さな光の粒がふわぁ~と舞うのを視ると
なんとも言葉では言い表せない深い親しみと安心に包まれます。
 
あちらとこちらの世界の壁が本当に薄くなっているいま、
そして私の内の準備も調っていた、いまに
この映画に出会えたことに嬉しく思っています。
 
あちらの世界にいたラジャーが覚醒し
高い振動でイマジナリー以上の存在として存在したように
この映画を見て共鳴することで、
私の内にあるあちらの世界の深く懐かしいエネルギーが覚醒して
いまのわたしに統合された感覚です。
まさに
懐かしくて新しい世界の振動が私の中に起きました。
 

 
大人が明確に『子供に見せたい』という作品を心かけて作られている。
この地上のものづくりのみなもとをこの映画に感じます。

『この作品に僕は満足してる。』とおっしゃる百瀬監督に乾杯です*

追記*
映画の中の主人公アマンダの家が、
三階の屋根裏=未来
二階の居間=現在
一階の書店=過去
なのだそう。
(ポノックの情報より)
 
うわあ。
これも未来を呼び覚まして
未知の過去(=新しい現在)を作る話だ!

 

『冬空の宝石箱』終了いたしました

点滴堂さんの企画展
立春の日に最終日迎えました。
 
お心寄せて下さいました皆さま
ありがとうございました*
 
今回も素敵なタイトルテーマの、
そしてそのタイトルテーマから
『自由に広げて表現してください』との点滴堂オーナー様のありがたいお言葉のもと、
アミュレット/おまもりたちが生まれてまいりました。
 
このたびお迎え下さったアミュレットたちは
お手元でますます本質的なきらめきを増すことと思います。
なぜなら・・
ひとつのアミュレットに組みあがるまで
たくさんのお心あるひとびとの手を渡って
細い糸を手繰るような偶然の重なりにより
わたしの手元へとやってきたそれぞれのピースから
この星や宇宙にとって
もっともよき循環が起こることを
真摯にリーディングさせていただきひとつひとつの工程を丁寧に、
素材たちが持って生まれたエネルギーをそこなうことなく
今回のようなアミュレットというかたちが生まれましたから。アミュレットをお手元に置かれることでアミュレットに納められた人と自然との豊かな関わりと循環の流れ(氣)を感じ取られますように。
 
おりしも立春はもうひとつの本質的な新年。
はじまりはあらゆる誕生のお祝いのときでもあります*
この特別な時期に、
素敵な企画展にかかわらせていただきまして
ありがとうございました*
 

小さな星たちの集まりのようです*