日の出 3/1-3/2-3/3

3月1日の朝日

若水

 
スペインの郷土料理ミガスにはまっており、
この日もあさひるごはんにつくりました。

家でコーヒーはのまないのですが、
苗から育てた自然農の「SAMURAIティピカ」だけは別です。
先日網が二重になっている茶こしを買ったので
これで淹れてみたらこれまでとまた味が変わって面白い。
フルーティな味が引き立ちます。

 
 
3月2日の朝日

若水

 
庭に植えたかぶの収穫をしました。

さっそく朝昼ごはんのスープに入れました*

 
 
3月3日の朝日

若水づくり
朝日のターンは今日で無事終了いたしました。
このあと月のターンに入ります。
若水は
ブルーボトルに入れて神棚で保存します。

2月28日で旧地球は終わりました。
かといって3月1日からまるまる新地球かというとそうでもありません。
旧地球が終わったと感じられるのは、
これは新地球に立った時点での視え方です。
 
新地球と旧地球のずれは段々と大きくなってきており
重なりのヴェシカパイシスの部分は段々少なくなっています。
いまはまだ新旧両方の地球を行ったり来たりしている方も多いでしょう。
 
振動の高い方から低い方への介入はできますが
低い方から高い方への介入はできません。
それはこの宇宙の理です。
 
 

王様の古墳 0229

2月29日の若水
庭の梅はガクのみになり。
父親の東京土産、銀座のバゲットで
スペインの羊飼いの野外料理ミガスを
ひさびさに作りました。
ちょうどかぶの時期ということもあって、
ミガスとかぶの最高の組み合わせで美味しくいただきました*

 
朝昼ごはんを食べ終わってゆっくりしていたら、
さわさわさわと呼ばれて山へ。

まだちいちゃな雪の下の葉っぱたち。
王様 待ってくれていた。
これからうまれる「土の弦楽器」と
「すずとおまもり」のために
王様のお山の土をお分けいただく
お許し得ました。

エネルギーの存在とうたをうたい。
不思議な時を過ごし。

前方後円墳の方形の先の大きな山桜の木といっしょに海と島眺める。
野イチゴの花が咲いていました。
桜色の樹液が昇る。
桜色に香る樹皮。
仲間たち

そこから
碧き地上の海へ

  
*2/28~29の水の繋ぎのお話。
 
2月28日におとずれた目黒不動尊(祭神ヤマトタケル)にて
2024年旧暦明けて初の護摩焚きの火を
持参したようわん水に直接転写しました。
水火合わさりものすごい振動を感じました。
護摩焚きのあと、こちらお水を
目黒不動尊境内の湧き水にお繋ぎさせてもらいました。
 
2月28日の旧暦明けて初の護摩焚きは、
旧地球最後の護摩焚きでもありました。
新しい地球へ軽やかに移行するにあたり、
旧地球の最後の残りカスを燃やし尽くしました。
そのために私はこの日呼ばれたように感じました。
前回護摩焚きに参加させていただいたときのことを思うと
今回は大変明るく軽やかさを感じたなんとも不思議な感じがする
護摩焚きでありました。
ご住職までが『今回ここに来られたかたは呼ばれた方だ。』
と言われました。
「軽やか」というのは
単に「軽い」という意味とは異なります。
過去生の回収、輪廻の終わり、と言ったことから発する軽やかさのように感じました。
『いよいよ本当に終わり、新しく始まるのだ』
という高次元での実感が今回の護摩焚きにともないました。
 
護摩焚のあと、目黒不動尊境内の湧き水を汲ませていただき
水火のお水に合わせました。
水の浄化、火の浄化、ともに成された
「水火結びのようわん水」と成りました。
 
それから大鳥神社にこちらのお水を繋ぎ撒かせていただきました。
その後、梅まつりの亀戸天神にて
拝殿前にてお水を撒かせていただくとともに、
境内の御池と、
神楽殿裏手にある枯れた古井戸に沸き水の復活を願い
「水火結びのようわん水」を注がせていただきました。
 
最後に大変氣のよい境内の
亀の像の口から注がれているお水を汲ませていただき
「水火結びのようわん水」と合わせました。
 
このようにして統合されたお水
「水火結びのようわん水」を
2月29日の旧地球の最後の日に
王様の古墳に継がせていただいたのでした。
 
古墳のお山を登る道々にこのお水を撒きながら、
頂上の王様の前方後円墳まで登りました。
 
頂上では前方後円墳の円形に植えられた楠を通じて
王様とお話をすることができます。
この楠の根元にぐるりとお水を撒くと、
王様が曰く『これは”復活の水”』とのことでした。
 
山から海におりて2月29日の澄んだ海水を『復活の水』に加えました。
 
『復活の水』。
このタイミングですので、
土の弦楽器または
ビークルヤンメをご注文いただいている方に
添えてお送りさせていただこうと思います。
それだけこれからの地球が必要としているお水なのだとわかります。
浄化につかえますが
それだけではないお水ですから
懐かしくも新しい地球復活にあたり
ご縁ある方はいろいろとお試しください。
 
ビークルヤンメの詳細につきましては
こちらのおぼえがきをご覧ください。
http://majo.moo.jp/oboegaki/?p=19592
 
ビークルヤンメを使ってさまざま体験しており
なかなかここに書けないことも多いのですが、
自分軸をしっかりサポートしながら
高次元からの情報をピンポイントに絞って輪郭をはっきりさせて
受け取ったり感じ取るのに役立つものであることは間違いないです。
 
 

ヤマトタケルの湧き水と一年ぶりの表具屋さん

山がうっすらピンクがかってきたのは
山桜の蕾が芽生えてきたからかもしれません。
若水に浸かる石がとても気持ちよさそうです。

午前中は工房のお掃除と土の弦楽器わたつみの調弦いたしました。

 

 
ここからは昨日のつづき
表具蒔絵工房 金兵衛さんのお話です。


金兵衛さんとの出会いは、約1年前。
ヤマトタケルの湧き水の前で偶然出会いました。
そのときのことを「ご縁」というタイトルで
1年前の1月19日におぼえがきしていました。
http://majo.moo.jp/oboegaki/?p=11611
この日のおぼえがきの前半の急須は
現在茶会瞑想のメインとなるお茶器として使用しているものです。
そして後半に
「まさにその職をされているというご夫妻と出会いました。」
と書かせていただいているのはまさに金兵衛さんご夫妻のことでした。
 
その当時わたしがお願いしたいと探していましたのは、
表具屋さんでした。
不思議なことにまだ絵も描いてもいないのに、
次に描く絵は掛け軸に仕立ててほしいと思い、
そうしていただける表具屋さんを探してネットなどを見ていたのでした。
 
そんな矢先に
いつものようにヤマトタケルの湧き水を汲ませて頂きに参りましたら、
偶然湧き水を汲みに来られていたご夫婦がいらしてて
なぜだか自然にすうっといろいろな話題で
泉の前で立ち話が終わらなくて。
お話の流れでおききしたのが、
この湧き水の近くで先祖代々表具屋さんをされておられるとのことで
私はびっくり仰天。
まさに表具屋さんを探してた矢先の
湧き水の導きとしか思えないような出会いでした。
 
あれから約一年と一月ほどが経ち、
わたしの手元には、ここおぼえがきでもご紹介している
王様の古墳の四隅の土で描かれた
シリウスのロストレコードの絵がありました。
 
工房イソラに来られた千穂さんがこの絵を視られて
これはシリウスの星図ですね、と
絵に収められている膨大なロストレコードの一部を翻訳してくれました。
 
崩壊した星の記録はその救いの道も記されていて
そのようにして土の弦楽器わたつみの音と響きで
全史をダウンロードするという流れが生まれました。
 
その音の響きはさまざまな方の魂にお届けし、
ある方々には何かしらの影響があるようでした。
起こったひとつひとつのエピソードはとても深く膨大で
言葉では表せないことも多いのでここでは割愛させていただきます。
 
そこからまたこの絵に新たなる展開がありました。
巫女舞の方のご紹介で工房イソラに来られたあおぞら友里さんが
容易く語ることができない彼女の深く様々な経験からの叡智により
このシリウスの星図に更なる展開が起きたのでした。
曼荼羅を形成していたエネルギーがまるで素粒子に還ったように
ひとつひとつの粒だつ自由に動き回る粒子へと
源のエネルギーの姿へと、還ったのでした。
『ここからまた新たなる創造ができる』
生まれたばかりの一粒一粒の動き回るエネルギー粒子が
この絵から新しい誕生のエネルギーとして発せられているのが感じられました。
 
そして、この地上において『誕生と幸せな幼年期のエネルギー』を担当している私としては
まさにこの再生したシリウスの星図を調えてなにかしたいと
感じました。
あおぞら友里さんが『絵が変わったね!
これはもうお守りになるね。』とおっしゃいました。
 
そして思い出したのでした。
一年前のヤマトタケルの湧き水での出会いを。

可愛い金兵衛さんのマーク*

起こる出来事ひとつひとつがまるでおとぎ話のようで
長くなりましたがようやく
昨日金兵衛さんを訪れたお話につながります。
 
金兵衛さんご夫妻は私のことをおぼえていてくださって、
快く、シリウスの星図を掛け軸に仕立てて下さるご相談に乗ってくださいました。
 
上記しましたような不思議な出来事も
興味をもって丁寧にお聴きくださり、
そしてじっさいに描かれた絵をご覧になりながら、
この絵の持つ揺らぎや空気感を損なわないようにと
たくさんのご配慮とご提案をくださったのでした。
 
金兵衛さん曰く、既存の掛け軸の作り方だと
絵の表面が真っ平らにぴったりとした仕上がりになってしまうから
この絵をそうしてしまうのはしのびないです、とおっしゃいました。

掛け軸は壁掛け以外にも床に置き
この絵の周囲に土の三本柱を置き、
そのうえに弦楽器をのせて
瞑想会のための演奏などすることも配慮して
仕立てていただけることになりました。

 
おくさまが屋車と墨で手染されたという布は、
写真ではわかりにくいのですが
金を感じるようなやわからかい光沢のあるもので
また布の細かいしわ目が空気を感じさせて、
再生したシリウスの星図をこちらの布の上に置いてみると
ほんとうにあつらえたようにピタリと来たのでした。
おくさまと『わあ*』とうれしくなって、
いっしょにこんな風に気持ちを分かち合えるなんて・・
『わくわくする』と言ってくださって。
やはり、金兵衛さんにお願いしてよかった*と思いました。
 
だんなさまも、
やったことないことだけど、と笑顔でおっしゃって、
わたしの無理な特注様々を
絵の軽やかさに合わせて、
なるべく掛け軸じたいにも重さを感じさせないような作りになるようにと、
わたしがお伝えさせていただいた趣旨を細かくメモを取ってくださり
最終的に今年5月の神戸での個展に間に合うように仕立てて下さることになりました。
 
そして掛け軸に仕立てる際に使用する糊は、
ヤマトタケルの湧き水で炊いたものをお使い下さるとおっしゃいました*
 
大好きな湧き水で・・なんというしあわせでしょうか。。。

甕のなかで醸している途中の歴代の糊を見せて下さいました。
古糊は、糊とカビの生え方のバランスを見ながら10年醸すのだそうです。
右下一番手前のものは今年1月に汲んだヤマトタケルの湧き水での糊だそう。
そしてこちら右側の、ほんのり黄色がかっている糊は、
一年前に偶然私たちが出会ったときに汲んだ湧き水で醸し中の糊とのこと*

おくさまは蒔絵をされていて、
陶器の金継ぎもなさるとのことで、
わたしもこれまでに私の作品の欠けや割れのご相談を受けたことがあるのですが、
陶芸の技術で治すことはできないものなので、
伝統的な漆の技術による金継ぎができるかたということで
金兵衛さんを今度からご紹介させていただこうと思っています。
 
また、本格的な漆による金継ぎがご予算的にむずかしいというかたや、
また純粋に金継ぎを自分でやってみたいという方にむけて、
お教室もされているそうなので、
こちらもよかったらぜひお問い合わせしてみてください*
 
金兵衛さんのホームページ
https://hayamakimbay.jimdofree.com
 
心優しく柔軟で繊細な金兵衛ご夫妻の魂に触れるようにして過ごしたひと時が本当に幸せでした。
新しく再生誕生したシリウスの星図を金兵衛さんに
自然の力を感じる手染めの布やヤマトタケルの湧き水の糊で仕立てていただけること
もう言葉にならないくらいに感謝しています。
 
帰りに金兵衛さんのちかくの梅林と河津桜に会いに行きました。

山栗の穴場も見つけました*
(すべてリスたちに食べつくされていました)

ぽかぽかの山の懐から
 
海へ

 
原木から育てられたシイタケを頂いて、
今日中にぜひ召し上がってくださいとのことでしたので
夕飯は採れたてぷりっぷりのシイタケ祭りでした*

山芋のおろし汁*
ただ焼いてルッコラを乗せて
お醤油とオリーブオイルで
ほんとうに美味しくいただきました。

本当に何もかも
人智及ばない不思議な巡り合わせです。
 
大地と宇宙の巡りに感謝です。ありがとうございます。
 
 

シエスタ ~土づくり

日の出を待つ若水
日の出を待つ梅

 
昨日おぼえがきしたシエスタシステムを
今日、自分の新しい生活習慣に合わせて導入してみました。
まだ何とも言えませんが、
表層的には思うように睡眠時間帯の移行の操作はできました。
身体は機械ではないので新システムの睡眠習慣に慣れるのに
まだ時がかかりそうです。
 

 
今日の午後は土づくり。

この土では楽器をつくりたいので粒子の大きさを
なるべくいい感じになるようにそろえたいと思いました。
それが楽器の響きにとどくものとなるので。

臼で何度もくりかえし挽いて

ふるいになんどもかけてはまた挽いて

細かくなるほど土の振動が変わっていくのが分かりおもしろい。
挽きながら、なぜか今日は888hzの音を
工房イソラに、土に、私に、聞かせていたので
その影響もあるかもしれません。

かなり繊細なパウダー状になりました。

作業しながら土が細かくなるほど
土のパウダーを吸ってしまうなあと思ったら
それを吸うのがいいのだそうだ。
体に必要なものがこの土の中にはあるのだそうだ。
たしかに
むせたり喉が痛くなるということは何もありませんでした。
ただただすんなり身体がこの土のパウダーを
まるで栄養のように吸収していたようにも感じます。

誰に教わらずともそのつど作るものに合わせた工程が
全部降りてくるのは(ある意味ダウンロードされる感覚)
やはりこれまで
何十年も土に深くかかわり
安心な太いパイプで高い次元の土の源の世界と
繋がっているからかなあと思います。

上記工程を繰り返し・繰り返し・して
使用できるようなったパウダー状の土を
使う分まで増やしていきます。
一度にたくさんはできなくて
次に細かくする土の塊を
すり鉢に入れるたびその土が
語り掛けてくるようなエネルギーを放っていて
そんな土ひとつひとつを親しく思う
自分の心の動きにも
ここち良さを感じます。
 
 

屋根裏のラジャー

イマジナリーは無力ではない。
この世界は光も闇もすべて自ら創り上げたものである。
イマジナリーは現実に成り得る。
 

 
少し前のおはなしになりますが
映画『屋根裏のラジャー』観ました。
 
なぜだかとても琴線に触れることばかりの内容で
最初から終わりまでほぼずっと泣き続けてしまって
映画が終わったときには頭がぐらぐらになってしまいました。


映画を観てから数週間経つのですが、
何度も何度も反芻するごとに気づくことがあって、
あらためてこれはとても深い映画だと感じ入り、
ようやく少しは言葉にできるかな?と感じられたので
おそるおそる・・おぼえがきしてみようと思います。
 

 
横須賀の映画館で見たのですが
小さな子供たちが何人も観に来ていて、
この映画の監督が『子供たちにみて欲しい』と
おっしゃっていたことがそのままに叶っていることを感じました。
 
ある子どもさんは
『あっ、小雪ちゃんがいる!一緒に写真撮って!!』
と、映画に出てくる小雪ちゃんの立て看板にたたたと駆け寄り
ママに催促していて、
どうやら二度目(か、それ以上)の観賞なのかなあ、と
微笑ましく思いました。
 
劇場内では、私が座った前の列に
お父さんが幼稚園くらいの双子の女の子とそのお兄ちゃんの
三人のお子さまたちと一緒で
一番でっかい塩味のポップコーンを席の間に二つ設置して、
正しい映画館での観賞ムード満点の幕開けとなりました*
 
この映画を子供たちのいる雰囲気のなかで観られたのがとても良かった!!

 
映画が始まって、
主人公アマンダの想像が次々に繰り広げられ世界が構築されて行く場面は、
これぞアニメーションの面目躍如!という感じで
まさに胸が透く思いです。
 
映画全体の色合いもとても美しかったのは
特筆するべきこととして印象に残っています。
 
アマンダの部屋の窓に飾られたステンドグラスのような飾りが
月明かりに透けて
洋服タンスに虹色の影を落としている描写など、
美術背景の非常に繊細な美しさに魂が震えました。
細部に神は宿る、まさにそんな雰囲気がありました。
 

 
イマジナリーというのは
子供がこさえる想像上の友達のこと。
やがて大人になり「想像」が別のもの「現実」に置き換えられると
彼らイマジナリーフレンドは消えて行きます。
 
今回この映画を見ていて
このイマジナリーフレンドというのは
別次元の自分、応身のようなものだと私は理解しました。
じふエネルギー体というのは現実にありますから。
映画のなかで『幽霊(4次元)とは違う』と明言しているところから
5次元辺りに存在するパラレル世界なのかもしれません。
 
ここで次元という言葉を使いますが、
これもあまり正確な言葉の表現ではないこと承知していますが
言葉でお伝えするすべとして
便宜上こう言わせてもらいますね。
 

 
別次元、エーテル体やアストラル体のことなど
この世界を作っている
エネルギーシステムとしてご存じのかたや
わかり始めたかたには
そう言う視点で視ていても
全く話に破綻がない映画であることが、
これもまた密かにすごいなあ、と思います。
これは理屈ではなく
やはり(図らずも)降りてきたものがある映画だと感じ、
そう言う映画は心にダイレクトに響きます。
 
例えば
イマジナリーが消えて行くとき、
(あるいは現れるとき)
小さな光の粒がふわぁ~と漂うのですが、
ちょうどこの映画を観る前に
私の回りにこの光の粒がふわぁ~と
しているのをみて、
あれは私のイマジナリーだったのだと共鳴してしまい、
理屈と時空を越えて
イマジナリーがそばにいてくれたのだと思うと
とにかく泣けてしまった。
 
この光の粒の表現、
大きさといい、動きといい、
(しかもなんとすべて手描きだそう!!)
これは「知ってる」人でなければこうは描けないと思いました。
いや、すごいです。
光の粒一つ一つのちからも。
 

 
物語のなかに、
主人公アマンダの母親リジーが幼かった頃の
イマジナリーフレンド「冷蔵庫」という名の大きな犬が登場します。
やがてリジーは大人になり
「冷蔵庫」のことをすっかり忘れて
イマジナリーと引き換えに
さまざまな現実の日常をいまは生きています。
 
けれどひとたび本気で憶(おも)いだすことで
視えなくなっていたものが
例え大人になっていたとしても
再びまた視えてくるようになる。
 
イマジナリーは
小さな子が大きくなって
大人になっても
いつでも、いまも、ずっと、
待っている。
 
あちらとこちらの次元の壁が
どんどん薄くなってきているいまこの時代に
この映画が公開されたのも
もしかしたら人智を越えて
必然的な流れだったのかもしれません。
 
世の流れや現象から
目に見えない世界を反転させて読むこともできますから。
 

 
ラジャーはアマンダのイマジナリー、
三次元からの視点で言えば想像上の友達です。
 
アマンダの家は本屋さんで
アマンダは沢山の本から
イマジナリーを創造することを体感的に学んだのでしょう。
そして本のちからでイマジナリーを育てるちからが強まることは、
アマンダの
本を愛する亡くなったお父さんの愛の深さなのかもしれません。
 
多くの子供たちのイマジナリーのちからが弱まってきているなかで
飛び抜けてアマンダのイマジナリーフレンドであるラジャーの存在が際立っている基盤はそこにあるように感じます。
 

 
イマジナリーは高次の現実と成る。
 
ラジャーはアマンダのイマジナリーですから
アマンダといつも一緒にいて
ある意味依存的に
(仕方がないのかもしれませんが)
行動をしています。
 
やがてアマンダが事故に合い
昏睡状態となったことをきっかけに
ラジャー(イマジナリー)の反転が起き始めます。
 
子供が創造することをやめると
イマジナリーは消える。
それは
大人になったり
アマンダのように事故に遭って
イマジナリーの創造が出来なくなったときに。
 
目覚めと眠りの狭間でラジャーは変わって行く。
目覚めていたものが眠り、眠りの世界のものが覚醒する世界で。
 
ラジャーが手にしたものはラジャーのはざまの世界では現実となり
消えることなく存在し続ける。
ほっぺの傷も
エミリのゴーグルも。
 
余談ですが
ラジャーの子役の声優さんが
初めはどことなくたどたどしい雰囲気だったのが
物語が進むに連れてどんどん役に入り込んで
ラジャーと一体化して行く感覚があり、わくわくしました。
声は時系列で収録されていたようで
映画のラストの絵が仕上がる前に変声期になりそうだということで
後半は、絵がまだできていないけれども
声だけ先に収録をしたのだという裏話を知りました。
 

 
ラジャーのとびぬけた生命力を吸いとろうと
バンディングという老人と
かつての彼が少年だったころのイマジナリーの女の子
(エネルギーが変質して屍のようになった存在)が
ラジャーを追いかけます。
 
この設定を見て私が受け取って感じたのは
やはりこの老人も女の子もイマジナリー世界のひとつ。
すべて自分の内にあるもの。
光も闇も。
だから何があっても絶対に大丈夫。
というメッセージでした。
 
ですから。。
ですから屍のイマジナリーとなった女の子は
アマンダとラジャーの命輝くイマジナリーを超えた
更なる高次のエネルギー世界を見て、
自分が何者なのか気づいてしまった。
似たような仲間が集まって同じ振動感覚に同調していると
なかなか自分が何者なのかなんて気づけないものですが、
比較するものがあると気づきますよね。
これは三次元の人間界でも同じ。
 
女の子は気づき、輪廻を自らたちきりました。
ポータルはバンディングの口の中にありました。
いまの言葉で言うと、
彼女はアセンション(次元上昇)したんです。
低い振動を抜け出した。
 
ここで
「死」というもののシステムが
こちらの次元からあちらの次元へと移る
魂の移行であるということをわかっていれば、
この映画における
バンディングとこの女の子のエネルギー体は、
やはり源はひとつのイマジナリー世界からできたものであり、
これまでどういう状況にあり、
そしてどうなったのか、
ということが理解できるのかな、と思います。
 

 
この映画のラストは
これを観た人自身が
いまどの次元に生きているか、どの次元の入口からこの物語世界に入ってきたによって
とらえ方が異なるようにいまは感じています。
 
私も初めは、ラストシーンで
あれ?なんで?
となったのですが
よくよく映画をあとで深堀して視てみれば、
ラジャーもまた
イマジナリーの次元の壁を越えて
さらに飛躍した世界に存在するものとなったことがわかり、
あらためて魂が震えたのでした。
 

 
『屋根裏のラジャー』
もう一度映画館の大画面で見たいと思って調べたけれど
(だって大画面で観るように作られている作品ですから。。)
いまはもうどこの映画館の上映も終了してしまっていて
ひどく残念に思うのでした。
また上映していただける機会を心待ちにしています。
 
少し前に図書館でこの映画の原作
『ぼくが消えないうちに』の
ラストの辺りを立ち読みしました。
原作の最後は映画と異なり細々とした後日談が語られていました。
 
例えば、
アマンダの親友ジュリアが、
彼女のイマジナリーフレンド「オーロラ」の話をするので、
ジュリアのお母さんが精神科にジュリアを連れていったことが描かれていました。
ジュリアのお母さんは、
リジー(アマンダのお母さん)に、
『あなたのとこのアマンダもまだラジャーとか言ってるなら、
良い病院見つけたの。紹介するわよ。』
と。 
さすがのイギリス児童文学。皮肉たっぷりに防衛線張ってます。
昔読んだ星新一のショートショートで
『本当に君に”それ”が見えているなら、
君は一生ここ(精神病院)から出られないよ。』と精神科医が患者に言う場面を思い出しました。
 
ともあれ、
『子供たちにみて欲しい』という百瀬監督の思いで作られた
「屋根裏のラジャー」には原作のこのような皮肉な場面はありません。
ただただ直球ストレートに
現実を超えたイマジナリーの世界が確かに存在すること、
そしてイマジナリーは愛の強さによって次元を超えて
高みの現実になることを清々しく謳っています。
 

 
映画を観終わって映画館から駅までの海沿いの遊歩道の灯りが
まるでイマジナリーたちの生命の光の粒にそっくりで
全くもってくらくらにやられてしまったのでした。

 
映画を観てから数週間経って
私はこの映画が本当に大好きだなあ、と思いました。
子供の頃に
何度も何度も繰り返し読んだ本や
いつまでも一緒にいたぬいぐるみ、
それらを大好きになったときの気持ちが
何だかそのまま甦ってきたのです。

ああ、子供の頃、
何かを好きになるとき
こういう感覚、
こういうエネルギーが湧いてきたなあ!!ということ。
ちっこい私が、
大人の私に(もう大人なんだから、とか、成長せねば、とか、
あるいは二次的に「昔好きだったもの」としてのストレートではない再会で)
おさえ込まれていた本当に深いところからのピュアな感覚が、
『屋根裏のラジャー』を観て自分がこの映画に共鳴したことで
(本当に最初から最後まで心が振るえて泣いてました。。)
ようやく安心したちっこい私が表に出てきて
いまの私と純粋に統合されたと思いました。
 
いまも、たまに自分の部屋の中で小さな光の粒がふわぁ~と舞うのを視ると
なんとも言葉では言い表せない深い親しみと安心に包まれます。
 
あちらとこちらの世界の壁が本当に薄くなっているいま、
そして私の内の準備も調っていた、いまに
この映画に出会えたことに嬉しく思っています。
 
あちらの世界にいたラジャーが覚醒し
高い振動でイマジナリー以上の存在として存在したように
この映画を見て共鳴することで、
私の内にあるあちらの世界の深く懐かしいエネルギーが覚醒して
いまのわたしに統合された感覚です。
まさに
懐かしくて新しい世界の振動が私の中に起きました。
 

 
大人が明確に『子供に見せたい』という作品を心かけて作られている。
この地上のものづくりのみなもとをこの映画に感じます。

『この作品に僕は満足してる。』とおっしゃる百瀬監督に乾杯です*

追記*
映画の中の主人公アマンダの家が、
三階の屋根裏=未来
二階の居間=現在
一階の書店=過去
なのだそう。
(ポノックの情報より)
 
うわあ。
これも未来を呼び覚まして
未知の過去(=新しい現在)を作る話だ!