その当時
おぼえがきに色々たくさん
書いていたのでここでは少しだけ触れますが、
2011年3月11日の原発事故があって
その時は都内江東区の東端近くに住んでいて、
都内でも特に放射能汚染のひどい地域に入っていました。
早い段階で、小さなお子さんのいる主婦の方がまとめ役となり、
区に対して公園の除染や
ガイガーカウンターの購入と貸し出しを申し出たところ、
『江東区としてはなにも対策しない。』という区長からの返答。
オリンピックの誘致が決まってそれにも絡む返答のようでした。
諸外国に江東区の汚染状況を知られたくない、と言うことでしょう。
江東区はもともと、外国人移住者の受け入れが激しくて、
あっという間に近所に外国人コミュニティができて、インド人や中国人などの村のようなものができていました。
私は江東区に40年以上住んでいましたが、
近所のスーパーに買い物に出ると
気づけば外国語しか聞こえてこなくなっていて、
公園で遊ぶ子供は外国人ばかりになって、ものすごくおかしい、怖い、と感じました。
そんな状況のなか、原発事故が起こり、
あっという間に近所の中国人たちは
本国に帰国して行きました。
私は近所の公園などの住民の自主的な除染作業に加わり、
そこで様々な、例えば、子供もいないのに何で除染作業ボランティアに参加するの?という、同じ参加者からの目や、
公共機関の誘導によるデモは単なるガス抜きで、何の意味もないこと、つまりデモの声を取り入れるつもりは皆無だということ、等々
身近な出来事から世の中の仕組み、様々、学びました。
自分の陶芸の仕事に関していえば、
屋外に置いていた陶土は汚染され、
全て処分しました。
食に寄り添う食器を主に制作していた当時、
放射能汚染のある土はもう食器には使えないと判断しました。
それまでのデパート出展の際にご一緒したことがあり、
左馬の絵をプレゼントしてくださった職人さんがいる福島の相馬焼の窯元は放射能汚染により閉鎖になりました。
私が土のことを命懸けで真剣に思うようになったのも
このときの経験があるからかもしれません。
遡って
2005年から約3年間ほどお世話になっていた萩焼きの業者のおばちゃんが良く言ってました。
『なんの土だかわからない食器に、
よく食べ物乗せるよね。
私なんか気持ち悪くてダメだわ。』
おばちゃんには本当にお世話になって、
かなり強い発言ですが核心的でしたので、
お客様にも歯に衣着せぬ物言いが
かえってお客様との強い信頼を築いていました。
おばちゃんに見習うところはたくさんありました。
陶芸の窯元の状況はずっと厳しくて
私の父方の美濃の窯元は祖父の代で、400年ほど続いた歴史を閉じました。
100円ショップや安価なインテリアショップなどの台頭でつぶれる窯元は急増しました。
町から急速に器屋さんが消えて行きました。
私が国際文化交流で訪れたスペインの窯元も同じ状況で、
陶芸で生活して行くことの大変さを思います。
ですから、安いものしか売れないのならば、
そのような作り方をするしかありません。
萩焼の業者さんにお世話になっていた当時、6000円以下の湯飲みは
萩の土では作られていませんでした。
採算あいませんから。
山から土をとってきて精製するのに
どれだけの手間と、何日、何ヵ月かかると思いますか?
そこで、安価な製品を作るために
国内の土だけでなく中国などよそから、薬品でとかしたもの(もはや何の土かもわからない)を原料として使う場合もあります。
萩のおばちゃんが『気持ち悪い』と言ったのは、そういうことです。
スペインの窯元でも同じです。
安くするための原料を
薬品で溶かして型に流し込んで
同じ形のものをいくつも作ります。
棚のサイズに合わせたもの、
重ねて棚にしまえるもの、それがお手頃価格。
それは本当によいものなのかな。
そういった要望は、
お野菜でも同じで
スーパーの棚に並べられるサイズ、
市販のビニール袋に人参なら3本はいるサイズ、
そうやって規格に合わせて野菜が薬品などの力を借りて作られるのと同じように、
安い器もそうやって作られています。
本来の大地の力も命も奪われて。
本来、土は振動をともない心に語りかけてくる大地そのものです。
特に陶土は特別です。
何万年もの間、大地のなかで眠り
粘度を増して生まれ変わった土が陶土です。
縄文人が土器に顕すのは
そういった陶土との出会いから森羅万象にアクセスしたもの。
そこから宇宙的な豊かさを引き出しているのがわかります。
そういった器で、いま改めて
嬉しく お水や食べ物を
いただきたいと思うのです。
そしてそういったうつわは代々使い継がれていくのです。
うつわは人のからだと同じ。
エネルギーのよりしろであること、忘れないでください。